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天正金鉱はよく「土肥金山」と比較されます。
 確かに同じ金山をテーマにした観光地なので比較され、あちらは豊富な設備費を投じて大規模な観光施設である一方、こちらは見どころも少なくて「不満」を感じるかもしれません。しかし、当時の模様(金山繁栄時)を観光客の皆さんに解説するには十分すぎる程の説得力がこちらにはあります。

 何よりも嬉しいのは、坑内の説明をテープに吹き込まれた音声で説明するのではなくて、ご主人自らが訪れたお客様に肉声で説明する「一期一会」的なサービスでしょう。そのおかげでしょうか、伊豆に来る度、ここを訪れるリピーターも多いようです。
営業時間 8:00〜17:00
定休日 年中無休
入館料金 ¥600/大人 ¥350/小学生
団体割引 20名以上
注意事項 足下にお気をつけください
電話番号 0558−98−1258
WEB なし

駐車場は30〜40台程度のスペースでしょうか。
混んでいなければ大型のバスも楽々駐車できそうです。

駐車場から降りるとすぐに受付の小さな建物がありますのでここで入場料を支払います。

ここは周囲に娯楽施設がなかった頃から(家族だけで頑張る)変わらない体制で営業しています。

昔と同じ自動音声ガイドではなく、主人(家族)がお客さんに付き添い肉声でガイドしてくれる数少ない場所なんです。

だから先客がいた場合にはちょっとお待ちいただく事もあるそうです。。

伊豆の金山は、佐渡(新潟県)の金山と共に古くから聞こえ高く、広く人々に知られていったと言われています。

天正年間の頃より伊豆各地で採掘され始めて、大判・小判の地金(金塊)になりました。中でも此の坑道(間歩)は最も古いものだと言われています。

此の金山は、天正5年(1577年)より採掘されたもので、戦国時代の技術が当時のまま保存されており、江戸幕府金山奉行の大久保石見守の姿が彷彿とされます。

坑道は金銀鉱脈を追い、金槌と鑿(ノミ)を用いた手堀りよるものです。
全長は約三十三間(約60m)で、途中には坑床と天井が階段になっている処があります。坑口より約40mの処には地上へ抜ける高さ、約23mの竪坑(換気・煙貫)があります。これらは坑内で松明(たいまつ)の灯を使用していたので、空気(酸素)を循環させる必要がある為です。

坑道の最奥部は扇形の極めて珍しい神庫(龕)になっており、金山としては稀有のものであります。龕造成の由来は、此の金山の金子(鉱夫)達が、最奥部中央に現存する鉱脈が多量の金銀を含有している事に驚き、更に掘削を続けて神秘幽玄な深奥を穢(けが)すと神の祟りがあると恐れ、鉱脈を山の神として祭祀する為に、祠(ほこら)を刻んで休山したのです。
考古学の泰斗「軽部慈恩」氏がこれを以て
「龕附天正金鉱」と名付けられました。

荘厳なこの手堀り坑道は、精密細緻(さいち)を極め、龕の造成を始めとして、掘削技術は一種の芸術であり、考古学・地質学・経済学上の参考資料として高く評価され、現在、伊豆市土肥の指定文化財になっています。





ここで掘り出した金銀は山麓の炉で精錬されはじめ、後に伊豆半島全域の金銀が運び込まれアマルガム精錬法で鋳金され、地金となり、千石船で駿府と江戸の金座へ送られました。

この精錬跡地の地名が「釜屋敷」と呼ばれています。

釜屋敷の説明を賢明に説明しているおかみさんに対してよくわかっていない?ようなお客さん(気持ちわかります)。

釜屋敷横にある石碑らしきものに小判が!(えっ、本物?)

釜屋敷の説明を終え、次はいよいよ坑道に向かいます(まずは地質のお勉強を)。

坑道に行くまでは若干の登り道。

そこに辿り着くまでには当時の様子(金山最盛期頃)のミニチュアモデルが各所に配置されており、説明を聞きながらまずは小屋に向かいます。

ちなみに伊豆には当時、土肥をはじめとして、湯ヶ島・縄地・修善寺・瓜生野の金山がありました。

中でも土肥の金山は最も古く、天正五年(1577)に発見され(他の金山は文禄から慶長年間に発見)、以後、伊豆各地で採掘され始めやがて文字通り「ゴールドラッシュ」と呼ばれる程の最盛期が到来したのだそうです。

途中の小屋の中には数々の小判や採堀された石の見本等がたくさん展示されています。

当時は採掘された金銀鉱は、品質が特に優れ、金子(かなこ)達の賃金は、採掘にあたった金子の衣服や体に附着した鉱石の粉や泥を洗って採れるもので全て賄われたと云われています。


いよいよ坑道の入口に到着です。ここは柿木間歩と云われています。
柿木間歩(坑道)は、坑口に山柿の大木があるところからこの名がついたと云われ、鉱脈が地上に露出しているのを発見し、この鉱脈を追って採掘され、全長は約100mの奥行きとなっています。

柿木間歩(坑道)は、代官「彦坂元成」のもとに採鉱されていましたが、徳川幕府の金山奉行「大久保石見守」の支配になり、慶長11年(1606)を最盛期として繁昌しました。この為、諸国から金堀の人々が多数この地に集まりました。

採掘方法は全て手堀りで、金槌(かなづち)と鏨(みの)によって掘られ、天正・文禄・慶長三代の鑿(ノミ)の跡が昔の姿ではっきり示されており、長年月にわたる掘削の様子が認められます。





坑道内は広くもなく狭くもなく・・・と云った感じでしょうか?明るくもなく暗くもない坑道内をひたすら進みます。

途中より天井も坑床も階段状に掘り下げてあり、特に天井(逆さ)階段はエジプトのピラミッド内同様空気の対流を考えたものです。坑道40mの地点には、地上に抜ける高さ23mの換気坑(右下写真)があいていますが、これは排気と灯りに用いた松のあかしの煙抜きにされたものであります。

坑道側面にある「ひだ状」の起伏は、「ふいごの理」を応用して、人の出入りにより、坑内の換気を助ける役目を果たしたと云われています。

ついに坑内最奥部に到着です。
ここは扇状よりなる神庫(ほこら)で、金山では日本唯一の珍しい龕(がん)になっています。

龕の造成された理由は、多量の金銀を含む鉱脈を追ってどこまでも採掘する人の欲望を抑える為、これ以上の掘削を続けて神秘幽玄な深奥を穢(けが)すと神の祟りがあると恐れさせる為に祀ったという説もあるのですが、当時は送気の技術が無く、三十三間(約60m)で坑内の空気が希薄になると思われていたので、祠(ほこら)をきざみ、山の神を祭って休山したという説もあります。

 手掘りによる坑道の掘削といい、龕の造成といい、稀有のもので、一種の芸術品とも云うべき精巧さを極め、考古学をはじめ、地質学、経済学上からも好個の参考資料となるものであります。

見る人に色々なものに見えると云われ続けてきた「龕」がコレ!あなたは何に見えます?

龕を見終え出口に戻ります。

途中から分かれ道になっていましたので、行きとは違うルートを歩いて出口に出てきました。

行きとは違い、帰りは楽ちんな下り坂。

竹林の中を歩くのは案外気持ち良いものです。

入場料を払った受付小屋まで戻ってきました。

よ〜く見るとここの横にも坑道があります。
実はここでは訪れたお客さんに手堀り体験をさせてくれるそうです(注意事項もあります)。

実際に昔と同じやり方で遊び程度に掘らせてくれるんです。
もちろんそこで金が出た場合にはお客さんの物ですので、一攫千金を狙いたい方は是非挑戦してみては?

坑道内はすでに3mぐらい掘られていました。




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