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土肥だけでなく全国殆どの神社等は観光収入を生業とした観光施設とは違います。

その地域の歴史や文化に興味のあるお客さんの為に特別に見学を許している箇所だとご理解ください。

したがって禁止されている行為やトイレ借用目的での参拝は御遠慮いただきます様お願い申し上げます。
伊豆市役所の後周辺にあるお寺「清雲寺」は小田原北条市時代の土肥城主富永山城守の菩提寺として建てられた歴史あるお寺なんです。
営業時間 9:00〜16:00
定休日 不定休
入館料金 無料
注意事項 浴衣での参拝は禁止
電話番号 0558−98−0221
WEB なし


地味な黒門を抜けるとそこに建つのは何とも派手な赤門が皆様を出迎えてくれます。

境内に立つその豪壮な堂宇(どうう)は、江戸城内御殿築城にあたった江戸時代の名工「酒井多次郎」と「藤原政房」によるもので、寺院建築の傑作といわれている建物です。



清雲寺の境内はごく普通の印象です。

大きな寺でも小さな寺でもない・・・そんなお寺にはどんな珍しいものがあるのでしょうか?


開基大檀那伊豆国高谷城主、富永山城守四郎左衛門政家にして小田原北条市康の家臣なり。
その父三郎左衛門政辰は永禄七年正月八日、里見左馬頭義弘と鴻ノ台合戦之砌討死す。
しかるに子息政家が抜群なる武功に依り當伊豆国に封せられ当村高野に居城を構え、
御父「法號 一楽院日富大居士」、
御母「法號 清雲院殿日永大姉」 菩提の為め、法號にて山號寺號を完備したという。

政家が高谷城を築きこの地を富永家菩提の地と定め日蓮宗を深く信仰し、土肥、戸田、八木沢、小下田、宇久須の領内に日蓮宗をひろめ、清雲寺をもって西伊豆日蓮宗諸寺の本山とした。

このように、富永氏の権力の確立拡大と並行して、当寺は西伊豆地方の政治的、地理的拠点としてもその勢力を拡大し、状大な寺院となる。

元禄十六年十二月、土肥全村大火災に襲われ、当寺もその災をまぬがれず類焼、享保年中当山十八代日相上人は、不屈の精神に燃え客殿を再建、堂の復興につとめたが、その後の風雨の被害が重なり、天保三年、現今の本堂を再建した。
以上、清雲寺パンフレットに記載されている原文を掲載しました。

向拝に龍の刻があります。
そこに記されている名前から「當国八木沢住人金刺忠兵衛、藤原宗次」による作と言われております。



清雲寺といえばこの日蓮聖人の生涯を描いた板絵額があるお寺として知られています。

この90枚の絵を描いたのは浮世絵師の「歌川国秀」氏で、歌川氏が51歳の時に完成させた絵だと云われ、明治23年11月に日蓮宗門篤志家の賛助により奉納されたものだそうです。

板絵は90枚にも及び、板の上に和紙を盛り上げて立体感を出すなどの手法を凝らした肉筆彩色画で、大型の額の中でも傑出した作品といわれ、檀家はもとより多くの人々に親しまれています。

1枚の大きさが畳み1畳分の大きさだと云う全90枚の板絵額は本堂内をグルっと取り囲むように配置されています。

更に並び順が多少変わっている所もありますので番号を確認しながら見ていきましょう。

板絵額の下には番号が付けられています。この番号通りに絵を見ていけば良いそうですが・・・。

正直、私のように歴史に疎い者や関心のない者が見てもチンプンカンプンです。

でも歴史に興味のある人や日蓮聖人に詳しい者はこの絵を1枚1枚見ただけで「これは日蓮聖人が何歳の頃のどういうシーンだ」とわかるのだそうです(スゴイですね)。


西暦1222年(貞応元年)、安房の国小湊(千葉県)の漁村で漁師の子として生まれ、清橙寺(せいちょうじ)に勉学に行き、道善御房に就て出家をした(この時16歳)。
政治と文化の中心であった鎌倉へ遊学し、その後仏教研究の為叡山横川を中心に、京都奈良の諸大寺に学び清橙寺にもどり、1252年(建長5年)、立教開宗を宣言した(32歳の時である)。

1252年から民衆を救済する為に鎌倉の街々で辻説法を行い、その後、日蓮聖人は「法華経」こそ正しき仏教と唱えた「立正安国論」を幕府に献上するものの1260年(文応元年)、幕府と他宗の反発を買い松葉谷(まつばがやつ)に構えた草庵を夜襲され1261年(弘長元年)、伊豆の伊東へ流罪されてしまう。

1271年(文永8年)、51歳となった日蓮聖人は他宗と幕府からの弾圧により捕らえられ10月、佐渡に流罪。宗教的境地にかたまりが見られ「開目抄」「観心本尊抄」を著わす。

1274年(文永11年)蒙古襲来、赦免(しゃめん)され、佐渡より鎌倉へ帰る。
諫を用いぬ鎌倉の地より身延に入り、弟子を教育。「撰時抄」を著わす。

1282年(弘安5年)、身延を下山。池上で病が重くなり、遺言を残して10月13日辰の刻(午前8時)に61歳で御生涯を終える。
10月21日、御遺骨は池上をご出立し、10月25日身延に御着。
10月26日、墓所に納められた。



板絵額を拝見した後、また外に出てきました。
清雲寺は赤門や板絵額だけが見所ではないんです。

いただいたパンフレットを見ると他にも見所があるようなのでちょっと探索へ・・・。

何か龍の口から水が出ている・・・・・。

こういった水飲み場は全国どこのお寺にありがちなんですが、もしかして何か深い意味があるのでしょうか?(すいません調査不足でわかりませんでした)


駐車場横に位置する建物は大蓮院。

寛政5年に「清雲寺塔中、往古久成院ト号ス」。富永山城守御殿間近小門に建立してあった建物を清雲寺境内に移す。三十番神をお祀りしてある。

三十番神とは旧暦1ヶ月30日間を毎日門番がわりに国家人民を守護すると信じられている三十柱の善神のことである。

普段は閉鎖されて中を拝む事は出来ませんが11月に行われるお会式時にはご開帳されている。


77段の急階段の石段を登り詰めると七面天女をお祀りしてある御堂に辿り着けます。

七面天女とは法華経行者の守護神「鬼子母神」の子供にあたる十羅刹女の一人であるとも、八大龍の孫娘の一人にあたる龍神だとも云われる女性の守護神なんだそうです。

とにかく狭くて急な階段ですので御堂に行く方はくれぐれも御注意を。
怖い急階段を登りきってようやく御堂に到着。

どうやら通常は鍵がかかっていて見られないようで、この日も扉は開きませんでした。

仕方なく11月に行われた「お会式」に再度訪れて内部を撮影してきましたが、七面天女様のお顔はチラッとしか拝めませんでした(左写真)。


77階段の途中(左側)には富永氏墓所があります。

天正18年、平和で繁栄していた土肥に、豊臣勢の小田原攻めにより、北条氏は滅亡。その勢力(九鬼の水軍)が土肥を始めとした周辺各地まで押し寄せ、富永氏も殺されてしまいました・・・。その富永氏が生前、両親の菩提を弔う為建立されたのが「清雲寺」なんです。
以後、開山以来山城守とそのご両親をお祀りしています


これはまだ清雲寺に設置されて数年と間もない「学業地蔵様」ですが、この地蔵様よりずっと古い地蔵様が本堂裏の庭内にあります。

富永山城守が心乱るる時、静を求める為、この地蔵庭にある地蔵様を拝したと云われています。

だからこの地蔵様じゃありませんよ富永山城守が拝した地蔵様は!(地蔵庭の写真が撮れなかったもので・・・)


学業地蔵尊の隣に位置する石は「御腰掛けの石」と呼ばれる歴史のある石。

清雲寺いったいより中浜(海側方面)にかけて高野城跡とされ、今でも御殿という名称が残っております。

御殿より富永山城守四郎左衛門が参拝のおりにこの石におかけになり、地蔵庭にて洗心されたと云われております。



日蓮聖人が弘安5年(1282年)10月13日の辰の刻、61歳で御入滅されて以来、その御命日に大聖人の遺徳を偲び報恩の誠を尽くす法要を営む事を一般に「お会式(日蓮聖人報恩御会式の略)」といいます。

つまりお会式とは、日蓮宗の開祖「日蓮聖人」の命日に行われる法要なんですが、例年10月から12月の半ばまで全国各地の日蓮宗のお寺で催されているんだそうです。
団扇太鼓を叩きながら、花を飾った万灯を立て、お寺に参拝するこの催しは全国ほぼ同じなんだそうで何処も賑やかに行われているようです。

土肥の清雲寺のお会式は毎年11月に行われていますが、子供の頃はどのような意味があるのか?全くわかりませんでしたが、とにかく子供心をくすぐる夜店がたくさん出ていた祭りでしたので嬉しかったですね。



本数こそ少ないのですが、清雲寺に咲く桜は絵になるそうで特にカメラマンには人気のポイントです。
しかし、日の当たる時間を見計らって撮影に出かけないと日陰で真っ暗・・・なんて事もありますので御注意を!






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