役立ち隊WTOP>神社・寺巡り>最福寺


土肥だけでなく全国殆どの神社等は観光収入を生業とした観光施設とは違います。

その地域の歴史や文化に興味のあるお客さんの為に特別に見学を許している箇所だとご理解ください。

したがって禁止されている行為やトイレ借用目的での参拝は御遠慮いただきます様お願い申し上げます。
営業時間 8:30〜17:00
定休日 不定休
入館料金 無料
注意事項 浴衣での参拝は禁止
電話番号 0558−99−0101
WEB なし
正式には金峰山最福寺と云います。
観世音を本尊とする曹洞宗の古刹で土肥の安楽寺の末寺、天正年間、僧宗順が創立し、明治に至って僧隣仙が法地としました。境内には住職の私費で建設した資料館があり、土肥町内の長藤平(地名)や火振遺跡の発掘品、及び当地出身の第14世本因坊秀和の使用した基盤、土肥の城主だった富永山城守(とみながやましろのかみ)の系図等の貴重な郷土資料が陳列され住職に頼めば見学させてくれます。
境内入口にある第14世本因坊秀和の顕彰碑も見逃せません。


入口前にあるこの看板を見ればどんなお寺なのか?わかりますね!


最福寺はもと下村のはかせだに在って知徳山感應寺と号した真言宗の寺であった(このことは長保2年(1000年)鋳造の鐘銘によって明らかにされたといわれる)。
この寺は火災のため焼失したが、天文年間再興して曹洞宗に改宗し、今から約400年前の元亀元年(1570年)に中村の現在地に移り、改めて金峰山最福寺と称した(本尊は聖観世音菩薩である)。
安政4年(1857年)1月7日、中村部落の大火の為、本堂・庫裡をはじめ境内に建っていた諸堂及び隣接地の子院「浄福寺」もことごとく消失してしまった。
時の住職「鶴洲和尚」は本堂再建を計画し、25年経った明治16年に現在の本堂ができた・・・・・・・・・・


最福寺のあるここ小下田地区は囲碁の世界で知らない人はいないあの「本因坊秀和」の生まれた地区です。
この最福寺にはそんな秀和に関する記録や資料が残されています。

通年、このお寺には秀和のような強い棋士になりたい・・と多くの囲碁ファンが訪れ参拝していきます。

幕末の棋士「本因坊秀和」は幼名を「土屋俊平」といい、文政三年(1820年)、伊豆市小下田(当時の君沢郡小下田村)に生まれた。

俊平が九歳の時、父(土屋和三郎)と一緒に三島のお祭りに出かけた際、沼津に住む十二歳の少年と俊平がひょんな事から囲碁で対戦する事になった。
しかし結果は・・・少年に四子で俊平の負け。
日頃、子供に囲碁の才能があると感じていたのか?その敗北に腹を立てた父親は、そのまま俊平を連れて江戸に行き丈和(第十二世本因坊丈和)に俊平を預けて父だけが土肥へ帰って来てしまった。
事情を聞いた家族は父親の勝手な行動に納得できず承知しない為、仕方なく父親は江戸へ戻り俊平を引き取りに行った。
江戸から土肥へ帰る途中、父親は俊平に(囲碁で負けた沼津の少年と)もう一度対局させると今度は互先で打ち分けた。
この結果に気を良くした父親は土肥へ帰って反対する家族をなんとか説得し、再び江戸の丈和に俊平を預け、正式に門下生にした・・・・・これが俊平が棋士となる有名なエピソードである。

この時より俊平は「恒太郎」と名乗り、正式に本因坊の門下生となった彼は十二歳にして初段となり、十三歳で剃髪して名を「秀和」と改めた。

天保九年(1838年)名人を座を返上した本因坊丈和は、11月に引退。実子の丈策が家督を相続し、第十三世本因坊丈策となった。
十九歳で六段に進んだ秀和は本因坊一門の中でも一頭地を抜く存在となり、二十歳になった天保十一年(1840年)、本因坊の跡目となった秀和は七段に進み、本因坊一門随一の実力者に成長する。

この頃、丈和引退を待って「名人碁所」の座を狙っていた井上幻庵因碩が名人碁所願いを提出すると本因坊丈策は反発をし、異議申し立てをして幻庵因碩の対戦相手として当主である自分ではなく秀和を選び対決させようとした。
本因坊一門の実力者とはいえ、当主ではない秀和が対戦相手・・・に幻庵側では難色を示し、寺社奉行は詮議に入ったが、後に寺社奉行から四番争碁を命じられた。
二年に及ぶ四番争碁で秀和は見事に勝利を収め、幻庵の名人就位の野望を阻み、幻庵の名人就任の野望はここで完全に断たれてしまった。


弘化四年(1847年)二十八歳のとき、一門の家督を継いで第十四世本因坊となり跡目には実子の秀策を定めた。さらに三十一歳で八段(準名人)に進み、その実力は自他共に日本一と認めるところで、囲碁界の最高位である名人(九段)就位も近いと思われた。

安政六年(1859年)、秀和は幻庵因碩の亡くなるのを待って、ついに名人碁所の願いを出した(この時秀和四十歳)が、宿敵・井上一門の反発や、それ以上に世は既に幕末動乱で世情不安を迎えている最中で、幕府は名人碁所どころではなかったのである。

結局、秀和はついに名人になることなく、文久二年(1862年)には当時流行したコレラに感染した跡目秀策が亡くなる等の不幸が重なり、明治六年(1873年)、五十四歳で失意のうちにその生涯を終わった。

秀和は名人の実力がありながら名人になれなかった者として「元丈」「知得」「幻庵因碩」と共に『囲碁四哲』と後に称された。

しかし、彼の門下からは、碁聖とうたわれた「桑原秀策」、明治の囲碁界をリードした「村瀬秀甫」、それに実子(次男)の第十七世本因坊秀栄(名人)ら碁界を担う多くの人材が育った。
秀和は今日、近代囲碁の創始者とも評価され、その棋譜は不滅の古典として今も光芒を放っている。


お寺につきものの地蔵様、もちろん最福寺各所に立っておられます。
でも、どういう云われがあって、どういう御利益があるのか?がわかりませんでした(私のミスです)。
どうしても知りたい方は最福寺を訪れた際、住職さんに聞いてみてください。



昭和54年8月に住職がほとんど自費で、土肥や伊豆に関する貴重な資料を集めた最福寺資料館が建築されました。
資料館建設構想は前住職からの長年の夢だったそうで、様々の苦労を経て完成したこの資料館だけに正式名称を「夢の実現堂」としたのだそうです

館内には土肥や伊豆に関する貴重な資料や出土品をはじめ、著名な人達の書物や手紙、が所狭しと並べられています。

この館内見学ももちろん無料ですが、事情により見学できない場合もあるようなので御注意を!


手前の盤面には「名人碁所」の座をかけて対局した井上幻庵因碩と本因坊秀和の対局の一部を再現したものらしいですが・・・ 館内にはとにかく貴重な資料が目白押し!

土肥の八木沢「長藤平」や「谷戸」遺跡から出土された物や土肥城主だった富永氏の系図、現在のカラー写真の生みの親である「長口宮吉」に関する資料等の土肥に関するものだけでなく、若山牧水や三好達治直筆の手紙、松崎出身の芸術家「伊豆長八」に関する書、伊豆代官であり江戸後期の砲術家でもあった「江川太郎左衛門」の直筆自画像、そして明治三舟と言われた「勝海舟」「山岡鉄舟」「高橋泥舟」の書、空海(弘法大師)の書など・・・数え上げたらきりがない程の貴重な資料が展示されていました。

もう歴史好きの人にはたまりませんね(ではその展示物の一部をどうぞ御覧ください)。
本因坊秀和の家系図と直筆の書
同じく本因坊秀和直筆の書
伊豆の名工と謳われた「伊豆の長八」に関する本 佐藤傅兵衛作の天女図
千手観世音菩薩 詩人「三好達治」の手紙
若山牧水直筆の手紙
長口宮吉 ←長口宮吉とは?
明治15年4月12日伊豆市小下田の下村の井田庄に生まれる。
大正3年に東京薬学校を卒業し、薬剤師国家試験に合格。
以後、東京芸術学校、東京高等工芸学校教授、富士写真フィルム株式会社、日本天然色写真株式会社、日本ゲバカラー現像所、阪田産業株式会社、カラー現像所等に関係した。
昭和8年、従来の天然色写真(普通の紙の上にほとんど印刷のようにして転写されて作られたもの)とは異なる新しい写真技術として、写真印画紙に直接に複雑な天然色彩を焼き付ける技術を完成(現在のカラー写真)し、世界でも類例のない発明者として知られるようになる。
後に富士天然色写真株式会社を社長として創立した。
昭和37年4月10日、70歳で生涯を終えた。
土肥城主・富永氏系図 長口宮吉に関する書物・他
平清盛自筆の摩訶般若波羅蜜多心経(複製版) 空海の書に関する解説文
明治三舟と言われた勝海舟(左)・山岡鉄舟(中)・高橋泥舟(右)の書
最福寺歴代住職年代表 約1700年前のガンダーラの仏像
伊豆代官「江川太郎左衛門」自筆による自画像 伊豆代官「江川太郎左衛門」胸像
薬広吉の版木と薬研(やげん) 武田信玄の黄金遺跡
八木沢「長藤平」や「谷戸」遺跡から出土品 八木沢「長藤平」や「谷戸」遺跡から出土品
最福寺寺宝の伝衣(でんえ) 書家たちによる作品

館内は解説してくれる人とか音声ガイド等は一切ありませんので予め御了承ください。





やはり最福寺が注目される一番の理由は寺の境内に咲く新品種桜「伊豆最福寺しだれ」によるものでしょう。

毎年、染井吉野よりやや遅い時期(4月上旬〜中旬)に咲くこの垂れ桜はピンポン玉の大きさと同じくらいの大きくて白い花を咲かせます。

この桜が見頃となる時期には終日多くの人が最福寺を訪れてとても賑やかな境内になってます。


とにかく土肥の歴史や文化を知りたい人には最福寺はお勧めなんです。






ページ途中リンクはいかなる理由でも固くお断りします。